【合理的配慮】社会がずるい?私がずるい?

こんにちは。

ADHDの女子大学生ラッコです。
今回は「合理的配慮」についての考えを書いていきたいと思います。


目次

合理的配慮とは

障害者が他の者との平等を基礎として全ての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものである。
引用:外務省「障がい者権利条約」


合理的配慮とは一般的に↑↑↑このように定義された、障がいを持つ人が他の人と同じように(平等な環境で)生活を送れないということがないように「必要なサポート(配慮)」を行うことです。

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EQUALITY(公平)EQUITY(平等)

この絵は有名な「公平」と「平等」の意味の違いについて説明したものです。
左が「公平」、右が「平等」です。

「合理的配慮」とは、サポートが必要な人に他の人と「平等」な権利や機会が与えられるように配慮を行うことです。
確かに上の図をみると、右の「平等」の図がの方が合理的な「サポート(木箱)」の使い方でであるでしょう。

合理的配慮はずるい?‐使ってこなかった理由‐

今まで私は、合理的配慮というものを一切受けてくることはありませんでした。担任の先生や、ゼミの先生など必要な人にADHDであることを話しておいて「もし困ったことがあれば助けてください」という多少の布石は打つことにしていますが、日々の生活に関してサポートを受けたいとは思ってこなかったのです。

それは、ひとえに「私は配慮がなくとも自分で工夫してある程度の生活水準を維持できる」と考えていたからです。

私はあったことがありませんが、おそらくADHDと診断を受けた方の中には、何らかのサポートがなければ学校の授業や仕事、日々の生活をうまく享受できない方もいらっしゃることだと思います。

しかし、私にはどうにかこうにかできてしまうのです。
たしかに、私はとても「忘れやすくて」「うっかりしていて」「鈍い」人間です。

それでも、毎日手帳に細かく予定や持ち物を書いたり、ルーティンを作ったり、授業では前の方の席に座ったり、わからないところは友達や先生に聞いたり、それでなんやかんや「どうにかなっている」のです。友達や周囲の人からの私の総合評価は、ちょっと抜けてて天然だけどしっかりしてるという意見が大半です。

ですから、そんな私がADHDという診断を受けているからという理由から、特別な配慮を受けるのはなんだか「ずるをしている」ように思えたのです。

合理的配慮を受けると決めた理由

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私が授業料免除の申請書類を「うっかり」出し忘れて、申請不可になった時のことです。(つい先日)
↓↓その時の記事です。
adhdrakko.hatenadiary.jp

私が、合理的配慮に関する上記のような考えを、合理的配慮を勧めてくれた特別支援学習室の方に伝えると、こんな答えが返ってきました。

「君の意見は正論だけど、それで合理的配慮を受けるのがずるいと考えるのは違うんじゃないかな。そうやって努力で補っている人のもとの能力の低さを考慮しないのは社会の責任だよ。社会がずるい」


私には、努力が才能のうちなのか、外なのかはわかりません。

しかし、その方の言ってくれたことには何だかうれしくて涙が出ました。今までほとんどだれにも目を向けられることの無かった「私の毎日の努力」をその人がしっかりと評価してくれようとする姿勢が本当に心強かったのです。

もとの能力の低いAさんが、人の何倍も何十倍も努力して権利や機会、実力を得た。
そうやって生活を送るうえで、努力していてもどうにもならなくて失敗した「うっかり」に配慮を行うのと、そこまで努力しないでも同じ立場にいる人の「うっかり」をサポートするのとはやってることが全然違う。

後者は努力不足を責められるかもしれない。努力すればその「うっかり」がなくなったかもしれない。

しかし前者はどうだろう。それまで人一倍努力してきたことが「当然」と受け止められて、それでももっと努力しろと言われるのは正当だろうか。

Aさんにしたら、自分の努力を少しも認めてもらえず、もっと努力しろなんて怒られるのはたまらないものがあるでしょう。



この話を聞いてから、たとえ努力で補える部分があったとしても、それが「他の人が努力しないでも享受できるもの」だったら「自分も努力しないで享受したい」と考えるのは自然なこと。

そしてきっと、それを白い目で見る社会は、障がい者や弱者に血の滲む思いをして這い上がることを強いるインクルーシブとは程遠い社会なんだと思えるようになりました。

一見傲慢なようで、こんな考えを発信するのは何だか恐ろしいですが最初に示した「公平と平等」についての図で考えてみても、これは当然の考え方ではないでしょうか。

仮に、彼らは全員野球チームのメンバーで研究のために他のチームの試合を観戦しており、一番背の小さい子が、台のない状態で野球観戦をしていたとします。
その場合、彼は野球観戦をするためにずっと飛び跳ねながら見なければならないかもしれません。

そして、野球観戦が終わった後のミーティングで試合内容について考察する場面で一番背の小さい子は発言できません。ずっと飛び跳ねるのに疲れ切っていたし、他の人のようにうまく試合を観察することができなかったのです。

それなのに背の高い他のチームメイトが、何の配慮もなく試合をちゃんと見れていなかったことを責めて「もっと努力しろ」なんていうのはおかしいですよね。

周りの人は、合理的配慮をおこなうべきでしょうし、背の低い子は「自分が何らかの配慮なしに他の子と同じパフォーマンスを発揮できない」とわかっているなら、「配慮を自ら願い出る」ことが必要なのだと思います。




長い間「合理的配慮」を敬遠していた私ですがやっと少しは受け入れてもいいのかもしれないと考えられるようになりました。



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